私は進む、この道を。
「今月で大江山の門が閉まります」
京が雪に真白く染まる冬。
その中でも今月…十二月は、私達一族にとって特別な月だった。
「行ってらっしゃい、和斗、雷蔵、実紀。
絶対に、朱点を討ち取ってきてちょうだい」
母様―――5代目当主は真直ぐに此方を見詰め言った。
「はい、母様」
「行って参ります。当主様」
「必ずや、朱点の首を討ち取ってまいります」
私達討伐隊もしっかりと視線に篭められた期待を受け止める。
万全の支度を終え、屋敷から出た所でイツ花に声を掛けられた。
「ご朗報をお待ちしております」
その言葉にしっかりと頷き、歩き出す。
背中に、イツ花の鬨の声が響いた。
「いざ、出陣!」
朱点童子。
私達一族の始祖に呪いを掛け、私達を人でありながら人ならざる者にした憎き敵。
奴が待ち構える場所―――それが、大江山。
大江山が開くのは雪深き冬の間の僅か二月。
今年こそは奴を打ち倒す。
この一年で力を付けた私達は、固く決意していた。
けれど―――
さくさくと雪を踏みしめる音を意識の隅に聞きながら、考える。
最近、母様の顔に陰りが見え始めた。
この血に宿った朱点の呪いは、この身をニ年と保たせない。
母様は今、一歳七ヶ月。
…もしかしたら、母様の生命はもう―――
「実紀、何ぼうっとしてる」
掛けられた声に、深みにはまりかけていた思考が引き戻される。
声の主を振り返ると、そこに居たのは、母様の弟の和斗兄様だった。
雷蔵兄様も、心なしか顔を曇らせてこちらを見ている。
「当主様の事が気になるのか」
「…はい」
私は恐らく浮かない顔をしているのだろう。
そんな私を、兄様達が心配してくれているのが分かる。
「お前の気持ちも分かる。だが、今は朱点を討つ事だけを考えろ」
「ごめんなさい、和斗兄様」
申し訳なくて謝ると、和斗兄様は私の頭をそっと撫でてくれた。
「…無理はするなよ」
「朱点を倒せば全てが終わるんだ。当主様だって元気になるさ」
雷蔵兄様の手が私の肩に乗せられる。
頭と肩に感じる、母様とは違う大きな手。
けれどその手には、母様と同じに慈しみがこもっていた。
そうだ。母様の為にも、今は目の前の敵を倒す事に集中しなくては。
私達は駈けた。
雪深き大江山を。
私達は討った。数多の魑魅魍魎を。
そして―――
『復讐の本番はこれからだ』
私は、目を、耳を、疑った。
何故?何が起こったの?
―――わからない。
頭が混乱する。
目の前で起こった事、告げられた言葉を理解出来ない。
わからない、わからない。わからない!
母様に会いたい。
いつものように優しく微笑って、頭を撫でてもらいたい。
母様。母様。母様。
討伐からの帰り道。
混乱し、重く沈む頭で、母様のことを考える。
そして、屋敷が視界に入ってきた瞬間。
私は駆け出していた。
「―――母様!」
ばたばたと屋敷の中を駆け、母様の部屋へと辿り着く。
果たして、母様は其処に居た。
布団から身を起こして、此方を驚いたように見ている。
けれどそれは、すぐに穏やかな苦笑に変わった。
「実紀、帰ったのね。どうしたの?そんなに慌てて」
いつもと変わらぬ、母様の柔らかな声にほっとする。
絡まっていた思考が、解けていくのを感じた。
「母様、あの」
「―――当主様、討伐隊がお戻りになられました!」
私が口を開くと、申し合わせたかのように満面の笑みのイツ花が現れる。
イツ花は私の存在を見留めると一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに今度は少し困ったような顔をした。
「お帰りなさいませ、実紀様。…お邪魔してしまいましたか?」
会話に割り込んだと思っているのか。
申し訳無さそうな姿に、何故か屋敷に戻って来た事への実感が湧いてくる。
「ううん、平気よ…それよりイツ花、母様に用があるんでしょ?」
そんな事はないと首を振ると、ほっとした様な色がイツ花の顔に浮かんだ。
そうして母様の枕元へと近寄り正座をして、口を開く。
「当主様、ご報告いたします」
報告の内容に見当は付いているが、敢えて口を出す事はしなかった。
詳しい事を聞いていないのか、全てを聞く前に報告に馳せ参じたのか―――イツ花の顔は嬉しげで誇らしげだ。
けれどそんなイツ花の様子に反するように、私の心は再び重くなってゆく。
あれは―――一体、何だったのだろうか。
「朱点童子が遂に討たれたそうです」
イツ花の報告に、母様はもう一度驚いたように目を見開いて―――そして、破顔した。
「おめでとう、実紀。貴女は私の誇りよ」
母様が喜んでくれている。
例えそれが直ぐに翳ってしまうものだと知っていても、久しく見ることの出来なかった明るい表情に、心が少し軽くなるのを感じた。
…ああ、良かった。
母様は生きている。まだ、大丈夫だ。
こうして、私の前で、笑顔を、
―――ことり。
笑顔が。
笑顔が、地に引き寄せられるようにして、傾ぎ、堕ちる。
「当主様!!」
イツ花の悲鳴が遠く聞こえる。
―――何が起きたのだろう。
私は、目の前で起きた出来事に只呆然としていた。
気が付くと、一族の皆が集まっていた。
母様の横たわる布団の傍、私に並ぶように沈痛な面持ちで座っている。
その表情に、否が応にも事実を突き付けられる。
―――ああ、母様は。もう。
「少し、遅かったみたいね」
苦笑する声の力の無さに、その身に宿る命の灯火が消える間近なのを感じた。
それに納得しているように見える母様に酷く哀しくなる。
「実紀…こっちに来て頂戴」
名を呼ぶ声に枕元へ近寄り座ると、母様は天井を見つめながら静かに言った。
「初代当主の名を―――貴女に託します」
初代当主の名を継ぐ。
その意味が分からない訳じゃない。
それは、母様が居なくなるのを認める事だ。
厭だ、と思う。
本当なら、こんな事になる筈ではなかったのに。
共に『生きる』喜びを分かち合う、その筈だったのに。
―――けれど、それが母様の望みなら、裏切ることは出来なかった。
「謹んで、お受けいたします」
「…有難う」
私の言葉を受けた母様は、額をそっと撫でてくれた。
そうして私の瞳に視線を合わせて、呟く。
「実紀。貴女は私の分まで、沢山、生きて」
細切れの言葉。弱弱しい声音。
母様の命が、少しずつ失われてゆくのが分かる。
「母様」
―――ああ。
やはり嫌だ。まだ。離れたく、ない。
「嫌だ。母様。嫌だよ」
この世に引き留めようとする私の声に、母様は微かに笑う。
私を見る視線は穏やかで、宥める様に柔らかい。
一瞬の沈黙―――そして。
「こんど生まれてきた時には、自分のお腹で子供を産んでみたいわ…」
額を優しく撫でてくれていた手が、ことり。静かに落ちる。
金茶の瞳が静かに閉じられていく。
母様の魂が、天界へと旅立った事を、私は悟った。
「母様ぁ―――ッ!!」
喉を引き搾り、私は叫んだ。
兄様達のすすり泣きが、哀しい響きを伴って耳朶を打つ。
一つの終焉から、今はまだ目を逸らしていたい。
また頭を撫でてほしくて、微笑み掛けてほしくて、私はいつまでも母様の掌に額を擦り付けて泣いていた。
「新当主ご就任おめでとうございます」
年は明けて一月。
私は初代当主の名を継いだ。
母様には、最後まで真実を告げられなかった。
この身には、未だ朱点の呪いが絡み付いているのだと。
私は、悔やんでいる。
母様の願いを本当の意味で叶えられなかった事を。
この身に宿る命は、あと2年足らずで尽きるであろう事を。
けれど。
いつか、きっと。裔の者が朱点を打ち倒してくれる。
だからその日を夢見て、私は走り続けよう。
母様の願いを、未来に託そう。
私は進む、この道を。
私は進む。
幾多の屍を乗り越えて。
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朱点を討ち取ったその月に当主が召されて、しかもその最期の台詞が次期当主である娘に充てたものだったのが、凄く印象的…というかドラマチックでした。